あたたかいパンとシチュー

「重いとも。そしてその重さを楽しめ、雑種」

「絶対魔獣戦線バビロニア」高らかに謳う、巣立ちの歌。

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Fate/GrandOrder 第1部 7章 絶対魔獣戦線バビロニア
FGOの中でも屈指の人気を誇るこの名ストーリーを、第2部7章を迎える前にもう一度読み込んでみました。
偶然か必然か、年末には「strange Fake」の特別番組の放送も控え、空前のメソポタミアフィーバーともいえるかもしれない今。『バビロニア』のことを、ギルガメッシュとエルキドゥのことを改めて捉え直しておきたいなと思ったのです。
(※この記事の前段として、原典・「ギルガメシュ叙事詩」も読んでみました。感想文はこれです…)

 

神代の代表・母神ティアマト

まずは前提から。第1部7章の物語は、古代メソポタミアに伝わる様々な伝承を「原典」として展開されています。例えば、バビロニア創世神話『エヌマ・エリシュ』。Fateオタクにはすっかりお馴染みのワードではありますが、その名の「元ネタ」は、この神話の冒頭2単語にあたります。
内容は、「原初の母神ティアマトをマルドゥクという神が打ち倒し、彼女の身体を割いて天地を分かち、都市や人間を創造した」…というもの。この母神ティアマトこそが、7章の“ラスボス”である、あのティアマトです。

ここでFGOにおけるティアマトの設定を確認しておきましょう。
FGO世界のティアマトは「原典」と異なり、世界のすべて(こどもたち)によって、虚数世界に追放されていました。ゲーティアによって呼び覚まされた彼女は、「もう一度すべての母として君臨する(神代に回帰させる)」ことを目論み、ビーストⅡ<回帰>としてカルデア達の行手を阻むことになります(この辺りはティアマトのマテリアルで補完するのがよきですね)。
つまり7章の戦いとは【創世母神たち神々 VS 人間(こどもたち)】の戦いであると…、そんな文脈であると言えそうです。

 

こどもたちの代表・ギルガメッシュ

では、神々の代表はティアマトだとして、人間(こどもたち)代表は誰なのか。
…まあ、この人をおいて他に名をあげることは憚られちゃいますよね、ギルガメッシュ王ですね。

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しかも、「霊草探索を終えた、王としてのギルガメッシュ。ここに大きな意味があるように思います。
彼の“原典”である「ギルガメシュ叙事詩」をふまえれば、このギルは「ヒトは永遠の命を得られない」と知ったギルであり、「最愛の友を失い、一度は荒れ果てたウルクで再び王として立つこと」を決めたギルです。要は、人間の限界・人間の弱さ儚さを知ってもなお、人間とともに生きると決めたギルガメッシュ。半神半人であるギルですが、これはもう紛れなく、人間側の代表といえると思います。
もちろん、ギルだけがすごいわけではありません。序盤にたっぷり尺をとって描かれるウルクでの生活…活気に溢れ、生き生きと暮らす人間の営み…。破滅の運命にあると知ってもなお生きようとした、ウルクの民ひとりひとりの強さ。それがまさに、「人理の礎」の象徴でした。

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…ちょっと話が逸れますが、私は7章に至るまで、カルデアの守る「人理」というやつが、なんというか、よく分かっていなかったなあと思うんですよね。ただの「歴史」とか「過去」ってわけじゃないよなあとは感じていたのですが、じゃあなんなんだと問われると分からなくて。けれどウルクに来て、人の豊かな営みを見て、そうかこれが「人理」なのかと…、おぼろげに感じた記憶があります。

「神々(ティアマト) VS 人間(ギルたち)」。
ここまでの構造はシンプルで分かりやすいですね。典型的な二項対立です。
けれど、7章はそこまで単純じゃない。イシュタル、エレシュキガル、ケツァル・コアトル…人間に手を貸してくれる神々がいたり、逆に、神々との争いを避けようとするウルの人間たちがいたりするのです。立場がAだから振る舞いもAであるというような、そんな単純入出力で世の中は回っていないということなのかもしれませんよね。

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…そしてさらに。
その「複雑さ」の極地こそが、「エルキドゥ/キングゥ」という存在だったんじゃないかと思うのです。

 

エルキドゥ、神代と人世のあいだにて

ここで、FGOFate)世界のエルキドゥの設定を確認しておきます。エルキドゥは、ギルを神々の側に繋ぎ止めるべくして生み出された存在でした。しかし2人は友となり、エルキドゥは人間と共に生きることを選びます。つまりエルキドゥは、神々側から人間側に立場を変えた存在だったのですね。
けれど、エルキドゥの「ハード」を利用して造られたキングゥは、初めこそカルデアの味方を装っていましたが、実際は敵側(神側)の存在だったわけです。こう見ると、「エルキドゥ/キングゥ」という存在は、神代と人世のあいだを揺れ動く存在としてデザインされているのかもしれません。

けれど…不思議ですね。マスター(藤丸)の誠意や親愛によって女神たちが立場を変えたように、キングゥの道ゆきを変えたのもまた、人心と呼ぶべきものでした。

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瀕死となったキングゥにウルクの大杯を与えたギルの心にあったのは、かつての友・エルキドゥへの友愛の情であり、その“後継機”・キングゥへの親愛の情。そしてそれを受け取ったキングゥの体に残っていたのは、ギルへの友愛の情の残滓、そしてキングゥ自身の……羨望、だったでしょうか。


かくしてキングゥは、人の世を守るため、母神ティアマトを繋ぎ留める天の鎖となることを選ぶのです。…きっとキングゥは、ひと時の猶予しか遺せないと分かっていたはずですよね。だからその行為は、自己犠牲ではあったのです。けれど、一方的に殺され、人類の贄となった「『エヌマ・エリシュ』神話のキングゥ」とは違う。おのずから、人理を繋ぐための礎となることを選択したんだから。

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生まれや立場と関係なく結ばれた親愛が、神と人の別を超える……それは、原典・『ギルガメシュ叙事詩』の核でもあり、かつ、7章バビロニアの核でした。そしてその親愛に導かれ、彼ら彼女ら「こどもたち」は、人理のために身を賭した。その象徴が、サブタイトル「天の鎖」であり、「絶対魔獣戦線バビロニア」と言えるのだと思います。

 

幼年期の終わり

最後に。
ティアマト(ビーストⅡ)戦には、“Childhood's End”という名前…というんでしょうかね、冠がついています。幼年期の終わり…つまり、ティアマトとの戦いの果てに訪れる「神代の終わり」を、物語は「ヒトの幼年期の終わり」と呼ぶのです。
「神殺し」でなく「親離れ」。
この戦いは、神を悪と誅するのではなく、ヒトがヒトの力で生きていく「宣言」なのでした。

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であるならば。その宣言の源泉が、人の親愛であり、覚悟であり、選択であるというのは……なんとうつくしい帰結なのでしょうか。Fateシリーズの歴史を踏まえ、メソポタミアの神話を踏まえ、その上で謳われる、純粋で高らかな人間讃歌!

 

…そして、こんなにも長々と語ってきた何よりもすばらしいことは、ウルクを後にした私たちの心に残るのが、辛く苦しい戦いの記憶じゃないってことです。

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思い起こされるのは、今なお色鮮やかな旅の思い出たち。ウルクの人々と神々に触れ、時と場所を超えて芽生えた「親愛」の気持ち。それそのものなのでした。